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おはようございます。
本日も演歌歌手の山内惠介さんを応援していきたいと思います!
本日も昨日に引き続き、北海道新聞のインタビュー記事をご紹介したいと思います!

◆「歌手の自覚を持て」恩師・水森英夫氏の言葉
──17歳という若さでデビューして、なかなか芽が出ない。故郷に帰りたいと心が折れたことはなかったですか?
【山内】 デビュー当初は忙しくて、それどころではなかったんですよ。やはり1年目、2年目は勝負どきなので、キャンペーンなどでそれなりにスケジュールが埋まるんです。だけど3年、4年と結果が出ないと、だんだん歌える場所も減ってきて。その頃が一番辛かったですね。恩師の水森(英夫)先生にも「(故郷に)帰ったほうがいいんでしょうか」と相談したこともありました。
──その時、水森先生は?
【山内】 「今は耐えろ」とおっしゃいました。「覚悟して歌手になったなら、そう簡単に普通の生活に戻ろうなんて思うな」とも。考えてみればそうですよね。僕は高校生でデビューしているので、アルバイトもしたことがないんですよ。バイトしたいなと思ったこともあったんですけど、オシャレなスターバックスとかでね(笑)。ですが、「歌手の自覚を持て」と水森先生が許してくださらなかったんです。
──歌うステージが少なかった日々は、どのように過ごされていたんですか?
【山内】 レッスンもしていましたけど、夜の公園で歌ったり、よく1人でカラオケに行ったりもしてましたね。いつかスポットライトを浴びて歌う日が来ることを信じて。でもそうやって歌に集中するなかで、やっぱり自分は“歌が好きなんだ”と再確認することもできたんです。今ふり返っても、あの時の水森先生のご指導は正しかったと思います。
──下積み生活のなかで、心の支えになっていたものを教えていただけますか?
【山内】 やはり1年に1枚、新曲を出せているという事実は、自分にとっての大きな糧でしたね。シングルを1枚出すには大勢の方の労力が必要で、そう簡単なことではありません。しかもこちらは1曲もヒットがない歌手なわけで、それでも水森先生は毎年必ず新曲を書いてくださった。そのことによって「自分は歌手なんだ」という実感も保ってこられたんです。デビュー18年目のこの年に、シングル表題曲18曲を収録したその名も“オハコ”というベストアルバムを出させていただくのは、僕にとって非常に大きな意味があることなんです。
結果が出なくても腐ることなく努力を続ける山内惠介さんの姿には感動しちゃいます。






 

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